昭和四十七年八月二十日 朝の御理解
御理解第十九節 「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所に行ってやる」 そこには時間もなければ空間もない。生神金光大神を念ずるところに、もうそこに生神金光大神、御取次の働きがはじめられるという事だと思うです。
 お取次を頂いておかげを頂くという事は、必ずしもここ御広前にお参りをするという事だけではない。ここお結界に出て、お取次を願うという事だけではないという事がわかります。
 金光大神は形がのうなったら来てくれという所へ行ってやると仰せられる。そこには時間もない、空間もない、生神金光大神と唱えるところに、もうそこに、それはどこから唱えても、海の真ん中から唱えても、山の頂上から唱えても、便所の中から唱えても、畑の中から唱えても、同じ働きというものがそこにはじまる。
 金光大神御取次の働きがそこからはじまる。只ここにお参りしてくるというのは、どこまでも信心の稽古である。ここは信心の稽古に来るところであると仰せられますように、ここは信心の稽古にくるのである。
 お取次を頂いて帰る。お取次を願って帰る。お願いをする。そしてお取次を頂くのである。皆さんこうやってお話を聞いて下さるってある事は、お取次を頂いておられるわけなんです。だから頂いて帰らなければいけない。又ここえ皆さんが出てみえられて、いろいろとお願いをなさる事はお取次を願われる事である。
 同時にここではだから信心の受け渡しの場というが一番適切だと思う。御広前という所は、どこへ行ってからでもどういう場からであっても、金光大神御取次の働きというものは、受けられる事がわかります。この御教えから。
 それはもうどこからでも同じなんだ。私はこの十九節を頂いて、金光大神のまあ、自由限りない、自由無碍と申しますか、なお働きがお出来になる御神徳、天地金乃神様からの御信任だけではない、神様からのお頼みを受けておいでられた。
 そこで天地金乃神様の願いであるところの成就を計って下さる、いうならば、神様の願いが、地上になるという、神様の願いが人間世界の上に成就していくという事の為に、その取次をなされるのが、生神金光大神。
 私は今日、この十九節はどのようなふうに頂こうかと思うて、お願いをさせて頂いとりましたら「天成地也」と頂きました。
 天成とはどういう事だろうかと思わせて頂いとりましたら、今申しましたように、神様の願いが、地上、とりわけ人間氏子の上に成就していくという事。
 神様の願いが地上に成就していくという事。それをまあ、現在の合楽の信心で申しますと、和賀心時代を創るという事だと思うですね。
 昨日、朝の御理解の中にも頂きましたように、信心とはわが心が神に向かうのを信心と言うのじゃとおっしゃる。
 しかもその最後きのところに、信心なければ世界は闇なりとおっしゃる。だから信心を頂いて光を頂いて、その光を自分の心の中に自分の家庭の中に、社会に広めていくという事。その事が天成である。
 神様の願いが地上になっていくという事。人間世界の上にそれが現されていくという事。成程、こういう素晴らしい事の亀に、生神金光大神は、神様から御依頼を受けられたのですから、もう天地金乃神の同根と仰せられる。確かにそうである。
 天地金乃神様がそうです。天地金乃神と申す事はとおっしゃる。もう清い所も汚い所もない。遠いもなければ、近いもない。勿論、時間、空間がない。それが天地金乃神様の実際のお姿だと言う事。
 その天地金乃神様と同根というところまでの、御神徳というものがです、金光大神はこれをね、平然と言うてのけておられます。
 自分が天地金乃神と同根であるというその大信念の元にですね、素晴らしいですねぇ。私が亡くなったら、肉体をもっておる間はそういうわけにいかん。ちょいと金光様こっちへ来て下さいというわにはいかんから、大谷のいうならば、ああいう田舎にしかもお結界、この畳半畳の中に座りこまれた切りであったですけれども、形がのうなったら、どこへでも行ってやるぞとこう仰せられた。
 これは神様からの御信任というものを、自分でモう自負しておられる。自分でもそうだと確信しておられる。その例えは、実証、そら、すらごつ言うでござるとじゃろうという事がない。
 生神金光大神を一心に唱えるところに、それこそ海のまん中から唱えさせて頂いてもやはりおかげを受けるわけです。
 二代金光様、四神様の時に、大しけに遇った海の漁師達が、中に一人、金光様の御信心をする人があった。それこそ生神金光大神を一心に唱えた。それこそ矢を射るような勢いで港にその船が向かったという、いうなら、そういう大暴風雨というか、大しけの海の中から、一心に唱えても、金光様がそこに働きを顕しなさったという、そういう例はお互い各々持っておる事だと思うのです。大なり少なり。
 それを実証しておいでになる。そこでです、私はそういう金光大神御取次の働きをここに頂く事が出来る程しの信心を頂いておるのであるから、金光大神に来て頂いた御取次の働きあっておっても、その働きが散漫になってくるような事では神様に対して相すまないと思う。それが薄いものになって行く。
 そこで今日、私が頂きました天成地成である。神様の願いが地上になると、それは以前に頂きました天成地成。地成というのは、神様の願いが成就する。
 神様のおかげを頂くという事は、もう地の信心に極まったという事。成というのは何々也、一銭也、二銭也とこういう、その也というのは、もうこれに極まったとという事。もうこれから先はないと。
 金百拾壱円也とかいたら、もうその壱円の下にはないとでしょうが。神様のそのような願いを、金光大神御取次の働きによって頂きとめるという事は、もう地の信心に極まったと。地の信心とは、いうなら泥のような信心だと私はいつも皆さんに聞いて頂いておる。泥のような信心。
 どのような場合であっても、最近の御教えを借りるとです。どのような事があっても、それを御事柄として、黙って受けていく。元気な心で受けて行く。
 いやそれを喜びをもって受けていくというような受け方。例えば大地にどのような汚いものをパ-ッと巻き散らかしたって、ああ汚いとも言わんでしょうが大地は。
 もう黙って受けて受けて、受けぬかれて、しかも、それが汚いものであれば汚いものである程それをいうならば、大地をいよいよ肥やしていく素となさる。
 しかもそれを、そこに木があり、植物があるとするなら、それに養分を送ってあげるという程しの働きをするのが泥であり大地である。
 そういう大地の心を心としていく以外にはない。もうこれに極まったんだと金光大神の御取次の働きをです、成程金光様と唱えるところに、必ず教会でなくてもいいお結界に出られなくても言い、自分のおる所で生神金光大神を唱えたらもうそこにです天地金乃神様の御働きが、金光大神のお取次によって始まるのだ。
 だからそれを受けとめるのは地の心に極まったという事。神様は信ずる者を信ずる 神様はいくら信じとりますと言うてもです、神様が信じて下さっておるなあと思われる程しのそこにおかげを顕していなかったとするなら、それは神様、信じておるとは言えません。必要なものは必要に応じて神様が下さるんだと、例えば信じております。神様はそういう働きをなさる神様である信じておりますと言うても、必要な時に必要なものが集まってこんようであったら、あなたの信じておるというのは、それは大した事じゃない事になるのです。
 神様は確かにそうと確信したら、神様は又その氏子を信じて下さる。そこにそんなら神様の働き、いうなら先日から頂いておりますよに要るものは有るのである。
 又は表現をかえますとおかげは、丁度おしめりがあるようち、天から降るようにあっておるんだという事。
 だからもうおかげの中に濡れておるのである。お互い。それをお互いが気づかない もうさんさんとして陽光のように、お天道様のお光を受けるように、限りなく、又それは丁度おしめりに合うその時のような実感でです、神様は恵みに恵み与え続けてござる。それを頂けれる道を教えて下さったのが生神金光大神。
 そこでそういう信ずる力というもきがです、どういうようにして、生まれてくるかお取次を頂いて、金光様のおかげで本当に願いが成就していく。神様任せになっときゃ、こういうおかげになるおかげを頂いてくるとです、段々神様ちゃ間違いないですなと言うてその段々有難くなってくる。
 ところがね、そういうおかげを頂いて間違いがないなあというておるのはです、それはやはり破れやすい、とれやすい。何故って、いつもかつも私共の願い通りになるという事がないからです。場合には反対になる事すらあるからです。
 そういするとあげんおかげ頂きよったつは、あれはちょいとふのよかったつじゃろうというごたるふうになって来る。
 そして現在ふんまえておる難儀が、もう難儀に感じられるようになる。それでは神様を信じておるといは言えない。もう信心がわからんごとなった、神様がわからんごとなったと自分の思うようなならんごとなると、すぐそげん思うようになる。
 昨日、日田の武内さんがお届けをしておりました。今頃信心が何とはなしに、マンネリ化してしまた。おかげも生き生きと頂けなくなってしまった。あれ程生き生きとした思いでお参りさせて頂いとったのが、いうなら、お参りがしろしゅうなった。
 結局スランプ状態。だからこれは何の稽古でも同じなんですけれども、そういうところこが必ずあるです。だから信心をいよいよお育て頂きたい、又育てたいという願いと、神の願いと私共の願いがでず、一つになりましたらです、神様はそういう又スランプも起こさせなさる程しの事がね、なってくる事になるわけです。
 それは又厳密にふりかえってみるとです、確かにあのような思い方をしておった事が、おかげの受けられんようになったんだなあ、こんな甘い考え方がいけなかったなと、それは振り返ってみると、反省させてもらう事は沢山あります。
 しかし、そういうものをひっくるめてです、神様はやはりよい事はかりじゃない。 やはりひとつの山というものがあって、そういう時にそこのところを大事にする人が、私は力を受ける思うですね。信ずる力、そういう時を泣く泣くでも辛抱しながら辛抱しぬく人が力を受けると思うです。
 そこをいい加減にするなら、もういつまでたっても力を出来ません。神様をもちろん信ずる力ですよ。神様を信ずる力は出来ません。
 惜しいですよね、だから、だからそこんところを、私はこれはもう、昔からですけれども、小学校を出ましてすぐ酒屋の小僧に参りました。
 押入れに布団をこうやって入れる。その押入れの壁の向こうのところに、布団を取る時必ず見えるところに、ミレ-の晩秋の絵が掛かっておった。そうするとその横にです、「節を元気な心で受ける人は伸びる」と書いておった。いわゆる座右の銘です 私の場合は押入れの布団の向こうです、だから布団を積んでる時にはわからない。 けれども、朝晩、それも布団を敷く時に、又は片づける時に壁の向こうにちゃんと貼ってある。
 ミレ-の晩秋は本当に敬虔な祈りを捧げておる。晩鐘の音を聞きながら祈っておるという絵がございますでしょう。有名なあの絵です。そうすると横には「節を元気で心で受ける人は伸びる」、これは私のその時代から、今でも変わりません。この事だけは。お互いがね、その節を大事にしないです。だから伸びないでそこから折れてしまうです。その節を大事にするから、それから伸びるのであり、その節から芽が出たり枝が出たりするのです。
 その節を大事にするから。その節というのがです、今がスランプ状態であろうかというような時なんです。だからそこをね、大事にさせて頂くという信心は、必ず力を受けるはず、神様を信ずる力を受けるはず。
 いよいよ力を受けるという事はね、水前寺清子ですか、あの人の歌っているのに「人の出来ない事をやれ」といったようよ事を、歌の文句にございますが、人のやれない事がやれる人、それは人が人殺しをしきらんのを俺が人殺ししたとか、人が泥棒しきらんとを俺が平気で泥棒したという事じゃないですよ。勿論、信心ですから、自分の心の中に、段々信心させて頂いておるとです、こういうこまい心ではいけないとかこういう心があってはおかげが受けられんと、段々わかってくるんです。
 だから、心をいよいよ大きくしていく事の為に、いうなら、くさいニンニクだって苦いセンブリだって飲まなければいけないという事。
 心を大きくしていく為には、それが日常生活の上にはあるんだ。苦い思いをする事がある。くさい思いをする事がある。けれども、それを今こそ心の胃腸が健全になる時だとして、頂いていく生き方。
 そこから人間が豊かに大きくなっいく。だからおかげも勿論、豊かに大きくなっていく事に間違いありません。受けものです。
 一合升に一升の水は計れません。一升のお酒を計る為にはやはり、一升のます持っていかなければならないようなもんなです。
 こういう小さい心ではおかげが受けられんと気がついたら、いよいよ大きくなる事に精進しょう。
 それこそ、「討ち取るはむづかし、されど妙賀哉」ここです。もう一番決定的な力を受けるというのはこれです。妙がという事は信心の喜びという事、その喜びがわかってくる。だから、こういう心をです、自分から打ち切るという事は、とても人間業では出来ない程しにある。自分の性根の中に入りこんでしまっておるのだもの。
 だから、それを切って捨てなければならん。こんな人かが、もういうなら、ほとんど百人が百人、それを持ったまま、一生お終わってしまう人が多いです。
 三つ子の魂は百まで持ち続けるわけです。ところがいよいよ力を受けるという人はです、打ち切れないところを打ち切ていくです。
 それを改まりと申します。もう大改まりと言うでしょう。いうなら、人の出来ない改まりを、改まっていくというのですから、もう絶対力を受けるです、これは。
 そういう力を受けてはじめて、金光大神取次の御働きがここに顕れてくる。おかげは降るようにあっておる。そのおかげを頂きところる事が出来る。
 いうならば、要るものはもうそこにあるのである。もう本当にそうです。だからここでは皆さんがおかげを頂いておられますとね、確かにそうでしょうが。今日はお客さんがみえたばってんお菓子もなあもないと言いよる時に、そのほんの寸前にです、コ-ヒ-を出しよったら、ケ-キを勝手の方へ持ってきて下さる方があった。
 それから又三十分後位に又、お客さんがあった。もうそん時には何にもなかから、麦茶をだした。そしたら、どんぶりにそれこそ今出来たとったようなかしわ餅が、どんぶりいっぱい出てきた。これはどうしたと言うたら、こうこうして頂いたとこういう。もう麦茶には、ちゃんとかしわ餅がそこにあった。
 私がだから、ここで玉露を出しとったら、羊羹がそれこそ一番相応しいものがそこにあるのです。
 だから、そういう働きを合楽では皆さんが実際にこう見る事が出来るでしょう。
 私はがそれをまあ、小規模ながらね、ひながたながら、それを頂いて、皆さんに見て頂いておるわけです。必要な者はひつように応じて頂けるんだという事を。
 だから要るものは有るという確信です。そういう確信が出来るという事はこれは人間じゃけんこの位の事は当たり前なんてん言わずにです、それがおかげを頂く邪魔になっておるものだと気がついたらです、それを本気になって改まり、いうならば、打ち切るは難しい,されど妙賀が欲しいと信心にならせて頂いたら、そこから生まれてるのが力です。
 私は今日の大祈願祭に、もう本当に自分が日願っておる、その願いの全ての願いをしかも一心にお願いを結集して、今日のお祭りみ仕えられると私は思うのです。ですからお互いがその祈り、願いというものに筋道を立ててとおっしゃる神様が喜んで下さるような、東京支部長じゃないですけれども、まあだ私が、かって商売大繁昌を頂かして下さいと願うた事はないて。お店に立たせて頂いたら、毎朝どうぞ今日も神様が喜んで頂くようなとまではいきませんけれども、どうぞお客さんに喜んで頂く商売をさせて下さいという事が、もう切にやまれん程しの願いだと言っております お客さんが喜んで頂くような商売をさして下さいという願い。これが神様が喜んで下さらんはずはないから、そういう願いにあるところの、光が照りかえってきて、まだ、わずか何年かしかたたんのに支店のひとつも持たせて頂こうかというような、働きが起きておるのです。
 商売繁昌を願わんと、今頃十三日会の時、それを発表しておりましたね。ですから願いは、どんな願いでもよいけれども、神様にまじあうというか、神様にお喜び頂けれるというよな願いにつながらなければいけない。
 そこうひとつ工夫して、どんな事でもよいから願え、けれどもそこには、ちゃんと筋道がたった願いでなからにゃいかん。しかも一心不乱に願わせ頂くのが今日の祈願祭だという事を申してきましたが、今日はそれにもうひとつ、今、只今私が申しました、永年信心させて頂くようになって、もうこれは取り組んでみても、取り組んでみても改められなかったところでございましたけれども、今日の祈願祭を境に、どうぞここのところを本気で打ち切らして下さい、本気で改まらして下さいという熱願をねそこにひとつおかせて頂こう。これは私も思いよる。
 だから皆さんもそういう願いをもって今日の祈願祭にのぞまれたらどうだろうかと思うのです。そこからね、もうこれは絶対の力です、いわゆるもうもりもりする確信です。神様を信じとります、有難とうございますというてもです、そこにらおかげを顕しえないくらいな信じ方ではほんなもんじゃないという事。
 只、おかげを頂き続けておるから、有難い言うたり、又神様が段々わかってきたとか、信じるとかいうのです。だからそれを反対に、今が節じゃろうか、これが又スランプ状態であろうかという時にです、そこを大事にする事によって、力を受けるという事を申しましたね。
 そしてぎりぎりこれは自分の性根の中に入っておるものですからね、それをね、とるという事は一応死ななければとれない。死ぬという事は、とにかく一生懸命ということなんです。その位な一生懸命なものを、神様へ向け、そこんところを祈願のいうならば、焦点にさして頂いて、金光大神が来てくれと言えば来て下さる、只来て下さっただけじゃいかん。そして神様がお取次の働きによってそこに顕して下さるところのおかげを見事にキャッチ出来れるげを頂かして頂く為に、いわゆる、いよいよ、天成地也である。一人の願いが、いよいよ成就していく地になっていく。それはもう地の信心に極まった。すべての事柄を御事柄として、成り行きを大切にさして頂きながら、受けて受けて受けぬかせて頂くという、信心の勇気と申しましょうか、元気な心を頂かせてもらう、そういう事を今日は力を受けるという、いわゆる金光大神お取次の働きを、そこに受けとめさせてもらう程しの働きを受ける事の為に、力がいる。
 その力を受ける為の、いろいろなお話を今日は聞いて頂きましたわけですね。
                                どうぞ。